御船町の魅力
阿蘇山の裾野に広がる御船町は、四季折々の美しい風景だけでなく、未知の魅力も秘めています。
御船町の新しい魅力を、火の国不動産がと探しましょう。
自然に囲まれた御船町
御船町は阿蘇山の麓に広がるちょうどよい田舎町です。この町は四季折々の美しい風景だけではなく、歴史や文化も共存する豊かな町。町へ訪れる人、町で暮らす人は自然のリズムに合わせてゆったりとした時間を過ごすことができます。
知られざる魅力
しかし、御船町にはこれだけではない知られざる魅力がまだありそうです。新しい御船町を発見し、御船町での暮らしやお仕事がますます、魅力的になるかと思うと、ワクワクがとまりません。火の国不動産は信じています。
温かい人情
御船町のコミュニティーは温かく結束し、地域の人々が助け合い、支え合う雰囲気があります。地域イベントや伝統行事を通じて、地域住民が一体となって楽しい時間を過ごし、地域の絆が深まっています。
生活環境
御船町の優れた生活環境は、豊富な生活施設や教育機関、医療サービスなどが整っています。ちょうどいい田舎として、住みやすい環境と充実した生活サポートが、御船町での暮らしや働くメリットになっています。
町名の由来と沿革
「御船(みふね)」の由来は、景行天皇が九州を平定するためにご巡幸なさった折、その「御船(おんふね)」が着岸したことによると伝えられます。
御船町の沿革
南北朝のころには、阿蘇家の一族、御船河内守盛安(みふねかわちのかみもりやす)が領有、ついで戦国時代には御船阿波守行房(みふねあわのかみゆきふさ)が支配しましたが、行房は阿蘇家の智将、甲斐宗運(かいそううん)に討たれます。その功により、宗運は御船千町を阿蘇家から与えられ、この地を支配しました。
天正15年(1587)、豊臣秀吉によって肥後の国は2分され、御船は小西行長(こにしゆきなが)が治めることになりました。
関が原の戦いで行長が滅ぼされると、その支配は加藤清正(かとうきよまさ)に移り、さらには細川忠利(ほそかわただとし)の手に移ります。
忠利が入国すると、政治の組織・制度に大変革行われました。なかでも注目すべきは、地方政治の根幹をなした手永制度です。手永制度とは、郡と村の中間に当たる行政区画で、惣庄屋が20~30ヶ村を一括支配するというものでした。現御船町の大部分は、はじめ西木倉、のちに辺田見(へたみ)に設けられた木倉手永会所総庄屋(きくらてながかいしょそうしょうや)の支配を受けました。豊秋列村は鯰手永に属していました。
明治12年、新三法の実施とともに、御船町・滝川(たきがわ)・木倉(きのくら)・滝水(たきみず)・上野(うえの)・豊秋(とよあき)の1町5列村となります。
昭和28年9月、町村合併促進法が施行されると、御船町を中心に合併の気運が高まり、昭和30年に旧鯰郷の一部であった豊秋、小坂、陣の豊秋列村、旧木倉郷の七滝、滝水、木倉、高木の六ヶ村を合併、昭和37年には、矢部町(現山都町)中島の一部であった松ノ生(まつのはえ)を編入して、今日の御船町が誕生しました。